2021-06-03 第204回国会 参議院 農林水産委員会 第15号
その場合に、日本には明治三十八年の興銀法で信託というのが入ってきたわけですが、したがって、そこから信託というのがあって、所有権は移転するんですね、信託。所有権移転するけれども、元々の所有者は信託受益証書を持つ、要するに紙を持つという形です。 例えば、先ほどの土地持ち非農家の方は別に土地を持ちたくないんだけど、そこが耕作放棄地になっているわけですね。
その場合に、日本には明治三十八年の興銀法で信託というのが入ってきたわけですが、したがって、そこから信託というのがあって、所有権は移転するんですね、信託。所有権移転するけれども、元々の所有者は信託受益証書を持つ、要するに紙を持つという形です。 例えば、先ほどの土地持ち非農家の方は別に土地を持ちたくないんだけど、そこが耕作放棄地になっているわけですね。
今おっしゃるように、やはりいろいろな形で、この銀行法というのに縛られているというわけでもないんでしょうけれども、お堅い銀行というものがいろいろ吸収合併をせざるを得なくなった九七年のあの銀行倒産から、まあ、階さんが勤められた長銀が倒産したり、興銀が倒れたり、日債銀等々、いろいろあのとき、興銀は倒れたんじゃなくて一緒になったんですけれども、富士銀行と興銀と第一勧銀は元はみんなばらばらの銀行で、今はそれが
○国務大臣(麻生太郎君) 今おっしゃるように、みずほ銀行というのは、元々は興銀、一勧、富士でしたかね、あの三行が合併してスタートしたのが二〇〇二年なんですけれども、そのとき三行とも使っていたコンピューターは違います。日立、IBM、それともう一つ何かありましたね、富士通だったかな。
あとは、興銀やら第一、富士やら何やら、みんな合併やら何やらしていますので、今はもう、興銀は今何ていうのと言われてすぐ名前が出る方が珍しいんじゃないか。私はその世界にいるからそこそこわかりますけれども、全然わからなくなりましたから。
あとは全部、第一だ、富士だ、興銀だなんて、今は何と言うんですなんて言われても、知っている人は珍しくて、りそなかパソナかにみんななっていますから、よう分からぬものになるぐらい銀行はなくなったんですよ。それははっきりしていますわな。 そういったような状況で、私どもとしては、これが極めて深刻化していったのがこの九七、八年で、金融国会等々もこの年に行われているんですが。
興銀と言われて、いや、何ですと言われて、みずほと言えたり、富士銀行、ああ、それもみずほですなんて言える人の方が少ないですよ。もう、昔の名前で出ていますのは、三井、住友と三菱ですかね、その三つぐらいで、あとは全部もう、東海銀行も何ももうなくなってきておりますので。そういった時代、銀行が全く食えなくなってきたというのになったときは、最大の理由は、みんな借金返したからですから、あれは。
○麻生国務大臣 金融国会のときであったと記憶しますけれども、少なくとも、金融の話で、九七年、九八年と続けて、いわゆるアジア通貨危機に端を発して、いわゆる金融というものが、随分な銀行が倒産しておりますから、九八年は長銀も興銀も全部倒産しておりますので、すごい騒ぎだったと記憶します。
そして、翌年になったら長銀も倒産、興銀も倒産というような形になって、ばたばた銀行が倒産するというような、いわゆる通貨危機が起きまして、これは、計画をつくられたときのいわゆる経済見通しよりは日本の経済状況というのは著しく悪くなったということから、この基本的な考え方は守りつつ、まずは景気回復なんだという方に全力を尽くすために、これはたしかこの年の、平成十年の十二月にこの停止法、たしか法律でこれは停止をされたと
したがって、金貸しやっている銀行にとってみれば、借りる人がいなくなれば金貸しという商売は成り立ちませんから、ばたばた潰れて、今では昔の名前で出ていますなんという銀行は、三井、三菱、三井、住友が一緒になり、東京、三菱が一緒になったぐらいで、あとは興銀、富士銀行、東海銀行、どこへ行ったかなんてすらすら言える人はよほどのオタクかプロかというぐらいになっちゃったんですよ。
それは痛い思いをしましたし、多くの銀行は潰れましたし、都市銀行なんていうのは、今はもう昔の名前で出ています銀行なんて二つぐらいしかありませんから、あとはみんな、東海銀行と言えば何ていうのと知っている人の方が珍しいぐらいですから、わんわんみんな東海も興銀も全部合併しておりますので、そういったことをやって、日本の場合は内容をかなり厳しくよくした。
それが九七年の通貨危機と重なって、金融機関というものは、一九九七年に都市銀行で最初に北海道拓殖銀行が倒産し、三洋証券、山一証券が倒れ、翌年には長銀が倒れ、債券信用銀行が倒れ、昔の名前で出ていますなんという銀行は東京三菱と三井住友ぐらいで、昔ありました富士銀行だ興銀だ、今は何銀行と言うんですと言われても、即答できる人の方が少ない。
早い話が、あのころの興銀とか東海銀行とかは今何銀行と言っているのか知っている、言える人なんてほとんどいませんよ。ほとんどの銀行は合併しなきゃ生き残れなかったんですからというのが実態だと思うと、えらく世の中が変わったんだと思っております。
本当に今なくなって、りそなだかパソナだか分からぬような名前に、興銀が変わり、あれが興銀だったなんて知っている人の方がよほど少ないんじゃないでしょうかね。
さらに申し上げると、興銀のお話がありましたが、かつては興銀、長銀、日債銀、こういう金融機関もあり、そして銀行を含めたさまざまな株式の持ち合いというのがあったわけでありますけれども、株式の持ち合いの減少の影響もある程度あるのではないかな、こんなふうに考えております。
日本興業銀行を中核とする長期信用銀行が産業金融を担ってきたわけでありますけれども、今や昔の話で、あの興銀が今どこに行ったのか、非常に嘆かわしい限りですが、これも時代の流れだから仕方がございません。 こうした旧興銀の代替ではないんでしょうけれども、産業革新機構がある意味で旧興銀などが担ってきた役割を果たした部分もあったかと思いますが、産革機構で問題が解決するとも思えないわけであります。
地方銀行の中で千葉興銀、千葉興業銀行というところには六百億円優先株の形でお金が入っております。この六百億円に対して今時価はどれぐらいになるんでしょうか。
○奥参考人 御質問に対しまして、関西興銀さんのお話がございましたけれども、私も、当時そういう、阪神大震災のときに、ちょうど私の方の銀行も関西にたくさんの店を持っておりましたので、よく存じております。ちょっと定かではないんですが、その貸し付けの原資が預金だったのか基金だったのかということで、たしか皆さんの基金を使ってそうされたと。さはさりながら、非常にいいアイデアであったというふうに思います。
先ほどの関西興銀みたいな無利子、無期限という形、これは特別だと思いますけれども、こういう制度があるんだよ、そういうところをもっと地銀協、特に東邦さんとしてはやるべきだ、このように私は思いますけれども、北村頭取、いかがでしょうか。
次に、私は、阪神大震災のことでいろいろな方々とお話ししたときに、関西興銀さんのお話を聞いたんですね。当時、無利子そして無期限ですぐ六千人の人に五万円を貸し付けた、名前と住所と拇印だけで貸したというんですよ。すごいなと思ったんですね。当時は携帯も普及していなかったので、千円、いわゆる公衆電話で使うお金も含めてお渡しした、そしてそれが一年間に約八割返ってきたというんですね。すごい立派だなと。
日本長期信用銀行は日本勧業銀行が中心になって設立された、いわゆる旧長期信用銀行法による興銀、長銀、それから不動産銀行とあったんですが、ここのもうビジネスモデルは成立しなくなったということで、長銀、日債銀が破綻して、興銀は合併によって生き残ったと。 しかし、あおぞら銀行、新生銀行も大きな銀行ですから、やはりビジネスモデルとして成立するような経営というものをお考えいただかないと私はいけないと。
○国務大臣(中曽根弘文君) 委員も銀行で、興銀におられて在職中留学されたと伺っております。そのときどれぐらいの手当であったのかは存じませんが、また、委員のお父様も人事課長をかつてお務めになったということもありますが、まず、一般の学生の留学とやはりこの外務省の在外研修というのは私は目的が、同じところもありますが違うところもあると。
したがって、財政、金融、特に興銀におられたせいもあろうと思いますが、金融等々に関して、特に国際金融に関していろいろな発言をして、一緒に意見を交換してきておりましたので、極めて適任な方だったと思っております。